旅と写真
「眼鏡をかけてカメラを提げていたらば…」という例えを持ち出すまでもなく、日本人は大の写真撮影好きだ。例えばヨーロッパの観光地、大型バスからドカドカと降りてきたグループはやにわにカメラ、そして昨今はビデオカメラを取り出すと撮影が始まる。お互いが被写体となって一通り記念撮影が終わると、再びバスに乗り込み次なる目的地へと向かって行ってしまう。現地の人たちの目に映るのは、まるで一陣のつむじ風のよう、写真撮影だけが目的でやって来たかのような印象だ。
"近代写真術”はフランス人ダゲールによって1839年に発明されると、40年代初期には早くもオランダ船によって我が国に伝来している。まるで魔法のような仕掛けを目の当たりにして江戸末期の人々はさぞかし驚いたに違いない。そして、「光の画」を意味する”Photograph”が翻訳されて生まれた言葉が「写真」。
”真を写す”と名付けられたことによって、逆に「写されたものは真実だ」という神話が成り立ってしまった。「これが証拠の写真です」とは今でも日常的に耳にする言葉だ。また、”寸分違わず”再現される映像は実物の代わりになることもある。かつて天皇の御真影は天皇そのものであったし、私たちが気に入った情景の写真を飾ろうとするのは代用物をそこに求めるからにほかならない。
文章や絵画に比べて、リアルで直接的な情報を持っている写真は、実はそこに写し出されているのは総体の中の極く一面にすぎないはずなのに、未知のものをあたかも実際に見聞し、理解できたかのような気分にさせてくれる。時空を越えてイメージの旅が手軽にできるのだ。
一方現実の旅のほうも、かつては、よほど重要な用事があるか、一生に一度の行事でもなければ遠方に出かけることもなかったのだが、近所の商店街に買い物に行くように海外旅行に行く時代となった。手軽な商品としての”観光”が大量に出回ると、現地に行っても現実は何も目に入らない、これまた虚構の体験となっているような気がする。
いかに身近になったとはいえ旅はハレの儀式である以上、短い時間の中でより効率良く楽しむことができるかは重要な関心事だ。見た通りに写っているのだから、旅の短い滞在時間は撮影に専念して後からゆっくり写真やビデオを眺めればよい。ましてや、現地に行った証拠の写真もあるのだから、と考えるのは自然の成り行きか。現代の旅と写真、共に”虚構”というキーワードでくくれるところが面白い。
旅先で写真ばかり撮っているのは何も日本人だけではないのだが、それにしても日本語の「写真」という言葉が持つ呪縛の深さをあらためて知らされる。
いつどこへ書いたのか忘れてしまったが、確か旅関係の冊子に頼まれたものだと思う。「写真」という言葉に違和感を覚えていたのでこんなことを書いてみた覚えがある